この度、歌舞伎町のアートギャラリー「デカメロン」にて、布施琳太郎と小泉明郎による展覧会「Bodies」を開催いたします。本展は、世代を違える二人のアーティストが、それぞれの学生時代に制作した作品を中心に展示するものです。
小泉明郎は1976年生まれのアーティスト。国際基督教大学を卒業した1999年よりロンドンのチェルシー・カレッジ・オブ・アート・アンド・デザインで映像を学び、2005年よりオランダ・アムステルダムのライクスアカデミーに滞在。天皇制や戦争、徴兵などの現在の国家の枠組みを考える上で避けることのできない題材を、映像やVR、絵画を通じて問い直し続けてきました。これまでの主な個展に「MAMプロジェクト 009:小泉明郎」(森美術館、東京、2009)、「Project Series 99: Meiro Koizumi」(ニューヨーク近代美術館、2013)、「捕われた声は静寂の夢を見る」(アーツ前橋、2015)、「帝国は今日も歌う」(VACANT、東京、2017)などがあります。
布施琳太郎は1994年生まれのアーティスト。東京藝術大学在学中からギャラリー、廃工場、インターネットなどを舞台に作品展示や展覧会のキュレーションを多数手がけてきました。2019年には第16回美術手帖芸術評論募集に論考『新しい孤独』で佳作入選し、執筆活動を開始。『美術手帖』や『ユリイカ』、『現代詩手帖』、『文學界』などに批評やエッセイ、詩などを寄稿してきました。また2020年の緊急事態宣言下の日本で、ひとりずつしかアクセスできないウェブページを会場とした展覧会『隔離式濃厚接触室』を企画。2022年には新宿区内の製本工場跡地の広大な会場を舞台とした展覧会『惑星ザムザ』をキュレーションするなど、常に大きな注目を集め続けています。
日本語で「○体」と表記される様々な言葉——「国体」(nationality / national body)、「身体」(body)、「媒体」(medium)、「具体」(specifically / concrete)など——の交差する地点に布施と小泉の作品があるとして、その問題意識をシンプルに指し示すことができる言葉として本展のタイトル「Bodies」は名付けられました。
※デカメロンと同一ビルの一階のコミュニティスペース「一刻」には、天皇家の肖像を題材とした小泉明郎による絵画作品《空気 #11》(2018)も常設展示されております。こちらはバーとしてお酒を飲むこともできますので、ぜひあわせてご観覧ください。
参考リンク
「不自由展」でも展示された小泉明郎「空気」シリーズ、歌舞伎町・麦ノ音で常設展示へ
アーティスト:小泉明郎、布施琳太郎(五十音順)
会場:デカメロン
住所:東京都新宿区歌舞伎町1丁目12-4 2F
鑑賞料:500円
日時:2022年7月23日(土)〜2022年7月31日(日)(月曜休廊)
時間:火~土 16:00~26:00/日 16:00~24:00
企画:黒瀧紀代士(デカメロン)
協力:SNOW Contemporary、無人島プロダクション
はじめて小泉明郎さんの作品を見たのは、アーツ前橋で2015年に開催された個展『捕われた声は静寂の夢を見る』でした。展覧会最終日に、見なくてはならないという危機感を覚え、なけなしのお金で新幹線に乗って群馬まで行ったのを覚えています。
当時の僕は、ようやく作品のようなものを作り始めた頃だったと思います。今回、展示する作品も2015年前後のものが中心です。当時のインターネットにはISISによって制作された動画が配信され続けており、東京ではSEALDsを中心として国会議事堂前でのデモが行われていました。そうした熱に晒されるなかで見たアーツ前橋の個展には、まさにISISやSEALDsが活動のなかで用いた「映像」というメディアが、無数に上映・展示されていました。
僕にとっての映像とは、個別の身体が生きて、死ぬ様が記録された後で、なにかが演じられ、編集されることで虚実が霧散した地平において、それらの歪んだ身体を直視することを可能にするメディアだったと思います。そこでどんなに残酷なことが起きていても直視できてしまう不思議こそが、僕にとっての映像でした。
7年前の僕が見ていた「映像」とは、身体と共同体を架橋するための武器であり、防具でした。しかし映像は、共同体を直接に撮影することはできません。そのカメラやマイク、映像編集ソフトがアクセスすることができるのは、個別の身体と景色だけであり、そこに添えらえれた「言語」だけがフィクションを構築します(しかし映像素材は、編集され、合成されることで現実には存在しない景色や身体へと変質することもできてしまうのですが……それもまた、コンピュータによって読み取られ、行使される言語の効用だと僕は考えています)。
つまり映像とは、この身体を、人間らしく生きられた形態としてたんに映し出すと同時に、そのポストプロダクションの過程においてキメラ的なリアリズムへと露出させることも可能としています。
そして僕が、小泉さんと共有することができるのは、共同体と身体の問題だと思います。それはあまりにシンプルな問題かもしれません。しかし「「私たち」としての共同体と、それを構成する無数の「私の身体」がどのように折り合いをつけることができるのか?」は、今なお人類が答えを出すことができていない問題だと思います。そして身体と共同体のあいだで映像を利用しようとする点に、僕と小泉さんの奇妙な交差があるのです。
その上で、小泉さんと僕が起点とする共同体は異なります。小泉さんにとっての共同体とは、まず国家なのだと個人的には思いますが、僕にとって重要なのは、国家によって管理される手前に存在する恋人たちの共同体です。
ここにある差異が、最終的に何を意味し、どのような地点で交差するのか。それぞれが現在の関心へと至る手前で、私たち自身の身体へと加えたストレスと負荷——としての映像——を実際に併置することを通じて、ありえるかもしれない身体と共同体の形態を垣間見たいと考えています。