私たちはよく戦う。
生まれる前からそのように誰かが仕向けているように。
私たちはそれを然もありと享受してしまう。これはそんな「物語」についての話だ。
オヤマアツキはこれまで自明として存在する「記号」を「皮肉的」に捉え直し制作を続けてきた。オヤマはその「記号」が持つ特異性を見つめ、皮肉にも内在化されている「記号」を持ち出し解き放つことで、鑑賞者に対し独特な違和感を喚起させてきた。
本展は、「第⼀サムエル記」第 17 章に記されているダビデとゴリアテの物語を⾜掛かりとし、次の言葉を念頭に置いての鑑賞を推奨する。
「石を投げる」、「贋作」、「転嫁」、「カリスマ」。
「物語」は羊飼いダビデが神の加護を受けゴリアテを撃ち破り、窮地に追いやられたイスラエル軍を救い英雄となった話である。ゴリアテが40日間もイスラエル軍に対して攻撃をせず挑発を続けた意図は単にゴリアテの慢心であったのかそれとも、多くの血を流さない方法を考えた結果「⼀騎討ち」という決闘方法の選択に至ったのかは誰も知る由もない。ダビデがゴリアテに勝利したのち、イスラエル軍は相⼿国に猛攻を仕掛け追撃し勝利を収めたそうだ。「ジャイアント・キリング」とは言い得て妙であり、番狂わせが起こると我々は何故か熱狂してしまう。叶いそうにない願望を他者に投影してしまう、もしくはそこに神の加護を重ねて見てしまうからか。何にせよ私たちが見たいのは決まりきったような結果ではなく予想外の事態なのだろう。
みんながめいめいじぶんの神さまがほんたうの神さまだといふだらう。けれどもお互ほかの神さまを信ずる⼈たちのしたことでも涙がこぼれるだらう。それからぼくたちの⼼がいいとかわるいとか議論するだらう。そして勝負がつかないだらう。
宮沢賢治「銀河鐵道の夜」より
既にもう線路の上だ。進んだからには進み方を誤ってはならない。だけどそれが誤っているかどうかもわからない。だから声が聞こえる方へ導かれるまま進もうと思ったんだ。