デカメロンで行われる 8 回目の展示は、東京都新宿区百人町にあるアートスペース WHITE HOUSE との共同キュレーション。
『I was killed by supervision (監督に殺された)』
ある作業員は意思なき労働者として扱われ、指示通りに働き、その過程と成果は常に監視化にあります。知識労働者以外の人間は全員監視されています。それがスーパービジョン(監督)です。
「世界中で多くの子供たちがマインクラフトをプレイしている。マインクラフトの世界では先ず穴掘りをする。地面を掘って、土・石・木など原始的な素材を採り、それらを加工して、建設資材や作業道具を作る。」
「コンクリートは自然界の岩石をもとに人間が発明した。海底に住む生物の死骸が珊瑚となる。それが堆積して大陸プレートにぶつかり、陸地に石灰岩が出来る。コンクリートの主材料であるセメントは、その石灰岩を加工したものである。」
「いま街中にある建物たちを見渡す。それらを建てるにあたり使われている建材の多くは、ホームセンターで誰でも買える。日本の住宅の壁と天井は、ほぼ石膏ボードで出来ている。みな、石膏ボードに囲まれて暮らしている。しかし殆どの人は、それを知らない。」
現代において、小さな事も大きな事も、ずっと続く事も一度きりの事も、多くの場合、常に監視されています。だから意思を持つのです。でないと、殺されます。
文責 秋山佑太
『super vision / deportare 』at デカメロン
新型コロナウィルスの影響により、2020 年に日本で行われる予定であった「東京オリンピ ック」は、建築/建設土木作業員達を措いて中止か延期の協議を行なっていた。
不要不急のお題目の下、作業員達は『作業を行い続ける』という点で、コロナ以前とはある種変わらない日々を強いられていたのであろう。
それは決して建築や建設土木現場に限った話ではないのは自明なことだが、私が使う『であろう』という表現は、建設現場が「内」と「外」とを隔てる境界を設け、公に掲示されている工程表は進行を指し示し、建設過程や作業員達の実態を私は想像をもってしか語ることが出来ない為である。
つまり、私が見ている世界とそして私が関与出来うる世界以外は、そもそも私が知り得ることの出来ない世界の筈で、他者の心情を盲目的に解釈し、私(達)は何故かその知り得ない世界をあたかも知ったような態度で主体的に想像する癖がある。至極、主観的な立場から。
ただ、知り得ない世界への接続には想像(力)は不可欠であり、私(達)はその想像(力)を足掛 かりとして世界を拡張してきた。
世界の複雑さとはそこに存在しているのかもしれない。
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デカメロンでは秋山佑太の展覧会名に「sports」の語源とされる「deportare」を加え、『super vision(スーパーヴィジョン)/ deportare (デポルターレ)』と題し、美術作家の渡邊拓也を迎え作品を併置し、とある作業員の視点から世界の拡張を試みる。
「私の位置の変化は、原則として私の視野の一角に現れ、つまり『見えるもの』の地図の上 に記録される。私が見るあらゆるものは、原則として私が届く範囲のうちに、少なくとも視野のうちにあり、『私がなすことのできる』地図の上に印づけられるのである。上記の二つ の地図は、それぞれに完璧なものである。見える世界と私が私を投げ入れている運動は、それぞれに同一の存在の全体の部分をなしている」。
モーリス・メルロ=ポンティ「目と精神」より
とるに足りない規則的な動作(運動)の連続を見ていると、ある時にふと美を感じてしまう瞬間がある。それは全体の目的に向かった部分的な行為の連続の中で、その部分的な行為自体に目的を見出し、倒錯した瞬間に。 そして、行為は身体と視野が密接に関わり合い、相互的で両儀的な同一性の存在が立ち現れる。その同一性は「止揚」の運動を欠きながら果てることなく続いていく。
本展覧会名の「deportare」には「憂いを持ち去る」や「荷を担わない、働かない」という語感の語でもある。 本年行われる事となった「sports」の大祭の為にどれだけ多くの人が土台となり荷を担ってきたのであろうか。そして、その従事者の憂いはいったい誰が持ち去ってくれるのであろう。
黒瀧紀代士