本展のために、新しい上皇のポートレイトを作成していたちょうどその時でした。
あるラインのグループに、高嶺格さんからオヤマアツキさんの作品画像が送られてきて、そのイメージを見て驚愕しました。目の前で作っている自分の作品と、送られてきた作品のアイデアがまさにシンクロしているのです。
しかし、このように複数のアーティストが同じ時期に同じような作品をシンクロして作ること自体は、珍しいことではありません。そして私は、このシンクロが起こるたびに、アーティストが作品を作っているというよりも、時代がアーティストに作品を作らせている、という感覚におちいります。個人を超えた、大きなコレクティブな無意 識に作らされている、という感覚です。そして、天皇制自体、まさにこのようなコレクティブな無意識の地平で機能しているものではないでしょうか。その制度に反対するも、賛成するも、まさにこの地平を一度通過させた表現にしなければ、この強固な制度の磁力を捉えているような表現には至らない。その意味で、本展で今日の天皇の肖像を扱おうとしたときに、このシンクロは偶然ではなく必然なのではと考えました。そこで、オヤマさんに声をかけさせてもらい、この二人展が実現しました。
エルンスト・カントロヴィッツという歴史学者は、『王の二つの身体』という本の中で、王の身体とは、「自然的身体」と「政治的身体」という二つの身体が統一された身体であることを書き記しています。「自然的身体」とは、生物的な身体で、欠陥があり、虚弱で、死ぬ運命にある生身の身体です。それに対して、「政治的身体」とは、国家の永続性を体現した、不可視、不可触で、聖なる、死ぬことのない身体です。王とは、この二つの身体を同時に体現した存在であるというのです。多木浩二が『天皇の肖像』で指摘しているように、日本の天皇を表現するのに、これ以上の適切な表現はないように思われます。
政治や法、メディアや文化や教育で想定されている身体と、己の生身の身体のギャップ、そのギャップが大きくなればなるほど、時代が芸術を必要とするのではないか。コロナ禍ではそのことをより強く意識させられています。
2020年12月 小泉明郎